{@句

July 2871996

 海南風尾をまきあげて紀州犬

                           杉本 寛

南風(かいなんぷう)は、夏の海から吹き寄せる季節風。当然のことながら、高温多湿となり蒸し暑い。そんな暑さの中で、舌も垂れずに昂然と沖を見ている紀州犬。まさに勇姿である。犬をうたった句は多いが、これほど直截にずばりとその姿を言い切った作品は、案外珍しい。この犬、切手の図柄になりそうだ。『杉本寛集』(俳人協会)所収。(清水哲男)


September 0691996

 表紙絵の明治の女秋の声

                           杉本 寛

ずもって、字面がきれい。漢字の間に配された「の」が、見事に利いている。日本語ならではの美しさだ。翻訳不能。こういうところを、俳句作家はもっと大切にすべきだろう。句意は涼しいほどに明瞭だが、これまた翻訳不能。訳したとしても間抜けとなる。ところで、誰にとっても「母」の世代を四季のどれかになぞらえるとすれば、「秋」となるだろう。大正生まれの作者は、表紙絵の明治美人に、どこかで若き日の「母」も感じているのではあるまいか。だから「秋の声」なのである。もちろん、この句をそのまま素直に受け取っておいてもよいのだが、読んでいるうちに、だんだんそんな気がしてきた。『杉本寛集』(自註現代俳句シリーズ・俳人協会)所収。(清水哲男)


November 24111996

 毛皮ぬぎシャネル五番といふ匂ひ

                           杉本 寛

の場合「香り」ではなくて「匂ひ」でなければならない。その理由は、作者自身が書いている。「ホテル・オークラでの所見。勿論私に香水の種類は解らないが、同行の友が教えてくれた。モンローの下着代わりと、わざわざつけ加えて」。つまり、野暮な男どもの好奇の対象としてのシャネルなのだから、「匂ひ」でなければ句が成立しないのだ。香水といえば、タクシーの運転手の話を思い出した。「我々の最大の敵は煙草の煙じゃありません。女性の香水の匂いなんですよ。涙は出る、ひどいのになると吐き気までしてきます。でもねえ、まさかお客さんに、風呂に入ってきてから乗ってくださいよとも言えませんしね……」。(清水哲男)


December 07121996

 辞表預り冬の銀座の人混みを

                           杉本 寛

れぞ人事句。この、一年でいちばん寂しい季節に、辞表を出した人の気持ちも切ないだろうが、受け取った側にもやはり切ない思いがわいてくる。辞表を鞄の中に収めたまま、さてどうしたものかと思案しながら、華やかな銀座通りを歩いていく。大勢の通行人。きらびやかなショー・ウインドウ。擦れ違う多くの人が「懐にボーナスはあり銀座あり」(榊原秋耳)などと大平楽に、つまりまことに羨ましく見えてしまうのでもある。(清水哲男)


July 3071997

 蚊帳に寝て母在る思ひ風の音

                           杉本 寛

和六十二年(1987)の作品。もはや一般家庭で蚊帳(かや)を吊るとは考えられない年代だから、これは旅先での句である。「風の音にふと目覚め、改めて蚊帳に気がついた。蚊帳は幼い思い出。それは母に繋るが」と、自註にある。このように、物を媒介にして人とつながるということは、誰にでも起きる。そのあたりの機微を、俳句ならではの表現でしっかりととらえた佳句だ。蚊帳といえば、横山隆一の漫画『フクちゃん』に、部屋いっぱいに広げた青い蚊帳を海に見立てて、海水浴ごっこをする場面があった。我々兄弟はそれを真似て、椅子の上から何度も蚊帳の海に飛び込んだ。本当の海水浴など、夢のまた夢の敗戦直後のことであった。『杉本寛集』(自註現代俳句シリーズ・俳人協会)所収。(清水哲男)


February 1321998

 庭石を子の字はみだし春の昼

                           杉本 寛

者の自註がある。「父が好きで庭の処処に石が置いてある。悪戯ざかりの長男が、よく楽書きをする。見て見ぬ振りをする父の姿が面白かった」。幼子が持っているのはローセキだろうか。子供の書く字は大きいから、庭石からもはみ出してしまう。春昼のスナップ写真のような句だ。落書きといえば、最近はとんとお目にかからなくなった。たまに見かけるのは、若者達がスプレーを吹きつけて「三多摩喧嘩連合只今参上」(これは実際に我が家の近所に書いてある)などと書くアレくらいなもので、幼児のソレを見ることがない。路上で遊べなくなったせいだ。昔はよく、アスファルトの道に延々とつづく列車の絵などが書いてあったものだ。それを踏み付けにすることがはばかられて、踏まないように歩いた経験を持つ読者も多いのではあるまいか。いまどきの子供向きの施設には「落書きコーナー」があったりするが、そんなサービスは落書き精神に反している。第一、よい子の落書きだなんて面白くも何ともないのである。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)


May 1551998

 月残す浅草の空まつり笛

                           杉本 寛

草の祭といえば、江戸三代祭の一つ三社祭だ。現在は五月十七・十八日に近い金曜日(今年は本日)に神輿御魂入れ、土曜日には町内神輿連合渡御、日曜日には本社神輿渡御が行われる。この句は、土曜日か日曜日か、祭の喧騒からちょっと離れたところでの作品だろう。月もおぼろな初夏の宵、浮世絵にでもしたいようなきれいな句だが、1971年の作句。私は長いこと東京に住みながら、まだ一度も三社祭を見たことがない。いつだったか、見に行こうと友人を誘ったら、彼は「止めとけよ、地下鉄の駅を出るのも大変なんだから」とニベもなかった。で、それっきり……。倉田春名に「地下鉄を出るより三社祭かな」がある。ところで現代の「祭」一般は夏の季語であるが、古くは「祭」といえば京都の賀茂祭(葵祭)のことだけをさした。古句を読むときは、要注意である。『杉本寛集』(俳人協会・1989)所収。(清水哲男)

[三社祭情報はここ]今年の神輿の宮出しは十七日午前六時から。今回から、町内を練り歩く三基の神輿の現在位置が、刻々と表示されるそうです。その他、浅草情報の豊富なベージ。


October 18101998

 丹波栗母の小包かたむすび

                           杉本 寛

から小包が届いた。開けてみるまでもなく、この時季だから、中身は丹波の大栗と決まっている。しっかりとした「かたむすび」。この結び方で、同梱されているはずの便りを読まずとも、まずは母の健在が知れるのである。ガム・テープ全盛の現代では、こうしたコミュニケーションは失われてしまった。自分の靴の紐すら満足に結べない子供もいるそうで、紐結びの文化もいずれ姿を消してしまうのだろう。昔の強盗は家人を縄や紐で縛って逃走したものだが、いまではガム・テープ専門だ。下手に上手に(?)縛って逃げたりすると、かえってアシがつきやすい。最近では、あまり上手に縛り上げられていると、警察はとりあえずボーイ・スカウト関係者を洗い出したりする。いまだに未解決の「井の頭バラバラ事件」のときが、そうだった。紐がちゃんと結べるというのは、もはや特種技能に属するのだ。話は脱線したが、この句を書いた二年後に、作者は「年つまる母よりの荷の縄ゆるび」と詠んでいる。一本の細い縄もまた、かくのごとくに雄弁であった。『杉本寛集』(1989)所収。(清水哲男)


February 2721999

 妻留守に集金多し茎立てる

                           杉本 寛

は「くき」の古形で「くく」と読む。茎立(くくだち)は、春になって大根や蕪などが茎をのばすことで、この茎が「とうが立つ」と言うときの「とう」である。こうなったら、大根だと「す」が入って不味くなるので食べるわけにはいかない(人間だと、どうなるかは関知しない……)。農家では、種を取るために、わざと茎立のままに放置しておく。自註がある。「たまの休日。一人で留守居をしていると何故か客が多い。客といっても、集金・勧誘の類。折角読書をと思っても興がのらず、庭を眺めるだけ」。昭和57年(1982)の作品だ。当時はまだ、そんなに諸料金の銀行引き落としシステムが普及していなかったので、休日の亭主族はこんなメに会うことが多かった。庭の植物の茎立さながらに、われと我が身も「妻」に放置されたような苦い笑いが込められている。私にも、もちろん覚えがある。しつこい新聞の勧誘に粘り強くつきあって、ついに撃退(失礼っ)に成功したと思ったら、勧誘のお兄さんの捨てぜりふがイマイマしかった。「そうですねえ。ご主人に『アサヒ・シンブン』は難しすぎるかもしれませんねえ」だと。よくも言いやがったな。読書に戻るどころではない。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)


June 3062000

 三島の宿雨に鰻をやく匂ひ

                           杉本 寛

のまんまの挨拶句だが、まずは雨降りというシチュエーションが利いている。湿った空気のなか、どこからか鰻をやく匂いが低くかすかに漂ってくる。晴れていれば暑苦しいばかりの匂いも、雨に溶けているかのように親しく匂ってくるのだ。旅情満点。酒飲みなら、そこらへんの店で必ず一杯やりたくなるだろう。「やく」と平仮名にしたところも、うなずける。「さあ、いらっしゃい」と景気付けの店先では「焼く」だけれど、雨の情趣を出すには「やく」でなければならない。静岡県の三島だから、高級な鰻のやわらかさにも連想が行く。よい映画批評が私たちを映画館に連れていくように、掲句は雨の三島への旅情を誘う。私にとって三島は未知の土地だが、行く機会があったら、きっとこの句を思い出すだろう。近ごろの鰻は養殖が増え、すっかり季節感がなくなってしまったが、元来は夏のものだ。少年時代の田舎の川にも鰻がいて、若い衆の見様見まねで鰻掻(うなぎかき)で取ろうとはしたものの、とうてい子供の手におえるような相手ではなかった。ちゃんとした鰻を食べたのは、二十代に入ってからである。さて、今日で六月もおしまい。間もなく、鰻受難の季節がやってくる。『杉本寛集』(1988・俳人協会刋)所収。(清水哲男)


October 27102000

 帽子掛けに帽子が見えず秋の暮

                           杉本 寛

の男は、よく帽子を被った。戦前の駅や街などの人出を撮った写真を見ると、たいていの男が帽子を被っている。会社員はもちろん、小説家や詩人もほとんどがソフト帽を被っていたようだ。うろ覚えだが、白秋に「青いソフトに降る雪は、過ぎしその手か囁きか、酒か薄荷かいつの間に、消ゆる涙か懐しや」の小唄がある。おしゃれの必需品だったわけだ。その気風は戦後しばらくまで引き継がれていて、二十代の叔父が、少し斜めに被っていたダンディな姿を思い出す。父は、いまだに帽子派だ。だから、家の玄関だとか会社の応接室などには、必ず帽子掛けが置いてあった。それがいつしか流行も廃れ、「帽子掛けに帽子が見えず」の状態となる。作者は帽子好きのようで、この状態に寂しさを覚えている。「秋の暮」のように物悲しい。と、これは私の勝手な解釈で、自註には「玄関には常に帽子がいろいろと。来客、句会の時は一掃」とある。つまり掲句は、来客があるので一掃した状態を詠んでいるのだ。そこまでは句から読み取れないので、私の解釈でもよいだろう。いまや帽子掛けは無用の長物と成り果て、その気になって探してみても、なかなか見ることができない。若い人に見せても、そもそも何に使う道具なのかがわからないかもしれない。しかし、どういうわけか私の今の職場には帽子掛けが置いてあり、誰も帽子など被って来ないから、もっぱら傘掛け専用で使われている。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)


March 0432001

 瞼の裏朱一色に春疾風

                           杉本 寛

の強風、突風である。とても、目を開けていられないときがある。思わずも顔をそらして目を閉じると、陽光はあくまでも明るいので、「瞼の裏」は「朱(あけ)一色」だ。街中でのなんでもない身のこなしのうちに、くっきりと「春疾風(はるはやて)」のありようを射止めている。簡単に作れそうだが、簡単ではない。相当の句歴を積むうちに、パッとそれこそ疾風のように閃いた一句だ。ちなみに天気予報などで使われる気象用語では、風速7メートル以上を「やや強い風」と言い、12メートル以上を「強い風」と言っている。コンタクトを装着していると、7メートル程度の「やや強い風」でも、もうアカん(笑)。その場でうずくまりたくなるほどに、目が痛む。だからこの時季、街角で立ち止まって泣いているお嬢さんに「どうしましたか」などと迂闊に声をかけてはいけない。おわかりですね。この春疾風に雨が混じると、春の嵐となる。大荒れだ。ところで私事ながら、今日は河出書房で同じ釜の飯を食い、三十年以上もの飲み仲間であった飯田貴司君の告別式である。享年六十一歳。1960年代の数少ない慶応ブントの一員にして、流行歌をこよなく愛した心優しき男。ドイツ語で喧嘩のできた一世の快男子よ、さらば。……だね。天気予報は、折しも「春の嵐」を告げている。すぐに思い出すのは石田波郷の「春嵐屍は敢て出でゆくも」であるが、とうていこの句をいま、みつめる心境にはなれない。まともに、目を開けてはいられない。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0622004

 東京に育ち花菜の村へ嫁く

                           杉本 寛

語は「花菜(はなな)」で春。菜の花のこと。「嫁く」は「ゆく」と読ませている。自註に「東京生れ、東京育ちの知人の娘さんが、奈良へ嫁がれた」とある。そして「愛は強しということ」と締めくくっているが、この美しい句の底に流れる作者の心理は、そう単純なものではないだろう。私の場合は娘が外国に嫁ってしまったので、とくにそう感じるのかもしれないが……。そのときの私に強い感慨があったとすれば、愛は強しよりも、良い度胸をしてるなあということであった。句の娘さんもそうだけれど、まったく見知らぬ土地で生涯を暮らす決心をすることなどは、とうてい私にはできそうもない。就職し結婚してから何度か転居はしたが、それも東京の中での話だ。その気になれば他県に住んでも構わない条件にあったときにも、ぐずぐずと家賃の高い東京にへばりついていた。それも、東京の西側ばかりでなのだ。しかし考えてみれば、昔から結婚で新しい土地に移り住むのはほとんどが女性である。男性が経済力を保持している以上、止むを得ないといえばそれまでだけれど、私の観察するところによると、どうも男より女のほうが、本性的に新しい環境への適応力があるのではないかと思う。地域のボランティア活動などを見ていても、総じて女性たちのほうがすっと入っていくし、その後の活動においても活発だ。彼女たちはたいてい結婚でよその土地からやってきているのに、何年かするうちに、もうちゃきちゃきの土地っ子のように振る舞えるのには驚く。だからその意味で、句の娘さんのこともそんなに心配するには及ばないだろう。ましてや、自分の子供ではない。……と思って詠んだとしても、作者の「でもなあ」というどこか割り切れぬ感想が、句に漂っているような気がする。なんとなく、句がハラハラしている。『杉本寛集』(1989・俳人協会)所収。(清水哲男)




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